季節のわるぐちは言わない

梅雨が明けた。

6月に梅雨が明けるのは、関東では初めてのことらしい。ここ数日の日差しがまるで夏だと思っていたら、ほんとうに来ていたんだ。6月が忙しかったこともあり、社内では「梅雨ってあったっけ?」と、みんな急にやってきた夏に追いつけていない様子だった。

 

8月生まれのわたしにとって、夏のはじまりは嬉しい季節だ。肌がヒリヒリする感じ、アスファルトや土の照りつく匂い、生命力に溢れる緑。麦茶やカルピスのコップについた水滴、扇風機...そりゃ、暑いのはいやだけど、自分の生まれた季節はどうしても愛してしまう。

 

でも、春、秋、冬のことも同じくらい大好き。「どの季節がいちばん好き?」という質問には、最近は「全部好き」と答えている。夏は暑いし、冬は寒いけれど、でもだからって「きらい」ということにはならないから。

どの季節も始まるときはドキドキするし、終わりはさみしい。だけどその季節にしか会えないものに出会うと「本当に30回目の夏だっけ?」と思うくらい、まだ、いちいち、感動してしまう。

 

「地球」や「空」や「水」がきらいな人って少ないと思うけれど、わたしにとっては季節ってそういうもの。数年前にそんなことを考えてから、心のすみにおいて、そっと守っている約束ごとがある。

 

それは、「季節のわるぐちは言わない」ということ。

 

意識しないと案外言ってしまう「季節のわるぐち」。今日もなんども「暑い〜〜」と口走ってしまったけれど、何も季節を憎んだりきらう必要はない。少なくともわたしはその必要を感じない。だから、季節のわるぐちは言わない。どの季節も好きなところを見つけて、そのときしか味わえない空気を存分に楽しみたいんだ。

 

そんな、31回目の夏の始まり。

こころに持つ辞書が似ているひと

 

好きなひとたちの共通項のひとつに

「違和感のあることばをつかわない」がある気がする。

わたしにとってはとても、大切なこと。

 

数年前、とある男の子と自宅へ向かう坂道を登っていると

彼は「疲れてしんじゃう」と言った。

(わたし毎日登ってるんだけど...?)と思いながら、

カジュアルに「死」というワードを盛り込んでくるひとが

すごく苦手なことを思い出した。

 

いのちをおとすくらいなら、

今すぐ坂道を降りて帰れと思って以来、そういえば一度も会っていない。

 

これは一例だけど、日々使うことばに対して割と敏感なほうで、

いちいちことばじりをとらえてしまうこともある。

心地よいことばにはすぐ身を委ねて、相手のことをすきになってしまう。

 

ことばには「考えてきたこと」「大事にしていること」が

無意識に反映されると思うから、

辞書で答え合わせをするのは意外といい方法なのかもしれない。

話していくうちに、その人の辞書がパラパラと見えてくる。

ことばを交わしながら相手の人生を少しずつ知っていくのは、

その人の辞書を手に入れ、徐々に完成させ、小説を読み進めているようで堪らない。

 

似た辞書を持つ人は心地良いけど、

まだ出会ったことのないような表現を聞くとドキドキして、

続きが読みたくて仕方がなくなる。

見たこともないような辞書に出会って打ちのめされたい気持ちもある。

 

この人は、例えば気持ちの良い風に吹かれたときになんていうのか、

照れたときどんな言い回しをするのか、

そういう「はじめて」に出会うたびに、

辞書はきらきらと更新されていくのだ。

 

ああ、面白いなあ、ことばって。