"ほんとう"を見るちから

ずっと、ひとの気持ちをわかりたかった。

いつからそう思っていたか覚えていないけれど、わたしにとって大切なのは、一番に早く走れることや、テストでいい点数を取ることよりも、友達がたくさんいて、みんなで楽しく過ごせているかどうかだった。

幼い頃、マンガやドラマの中の人物によく憧れた。彼らはたいてい「相手の本当の気持ちや本質をしっかりと見ることができて」「世間体や一般論なんてふっとばして、その人のことを全力で大事にできる」そんな、めちゃめちゃかっこいいヒーローだった。色めがねを使って、世界を見ない。自分の損得で友達と付き合わない。ときにぶっ飛んだやり方で、友達のために走り回る。バカでも、貧乏でも、彼らの周りにはいつも友達がいて、幸せそうに見えた。

マンガやドラマだってわかっていたけど、そういう人になりたいって、いつも思っていた。わたしが彼らに憧れていた理由は、その派手な手法や無鉄砲さではなくて、「"ほんとう"を見ようとする力」だったのではないかと思う。色めがねをかけていない彼らはいつだって、めちゃめちゃかっこよく見えた。

「好かれたい」「わかってると思われたい」という思いがスタートだったかもしれないけれど、今となってはどっちでもいい。「友達のこと・気持ちをちゃんとわかりたい」という気持ちは、今もわたしのまんなかにある。もちろん、他人を理解するなんて難しいことだ。だけど、相手のことをちゃんと見つめられる目を持っていたいと思う。表面に見えていることだけで、その人を判断しない。ありきたりなことばで相手を語らない。イメージで決めつけたり、押し込めたりしない。わからないときは、「わからない」でいい。でもいつだって、ちゃんと「そのひと」を見ていたい。

そうしているつもりでも、なかなかできていないこと。いちばん欲しいちからは、"ほんとう"を見るちから。

色めがねは捨てよう。いつだってフラットな目と心で、誰かと接したい。

 

 

叶わない思いをそっとしてしまう

恥ずかしい話だけれど、"ちゃんと切符を買えば遠くに行ける"こととか、"病院に行ったらちゃんと風邪は治る"こととか、そういうことを本当の意味で自覚したのがとても、遅かった。

フットワークは軽い方だけど、妙なところで「手の届く範囲でいいのだ」と思ってしまう。諦めているのとも少し違う。変なところでつまづいてしまうこの性格について、さかのぼってぼんやり考えてみた。

 

「 そこにあるものの中から、すきを見つける。 」

わたしは山の麓にある、自然がいっぱいの町で生まれ、18年間を過ごした。今思い返すと、「そこにあるもの」で楽しむ才能は、ここで暮らす中で必然的に身につけたのかも。たとえば、映画観賞。家にあるビデオテープを繰り返し観続けていた。世界中から観たいものを探し、手に入れる!というよりも、あるものの中から好きなものを探したり、繰り返し観ることで好きな部分をより強く「わかっていく」ことが何よりの楽しみだった。

それは映画だけではなくて、音楽も、小説も、漫画も、そういう楽しみ方だった。広げていくにしても、じんわり、じんわり。今思えば非効率なやり方で、自分の"好きのエリア"を広げていくことに、喜びを感じていた。

「そこにあるもの」で楽しむ。これは映画や小説に限らず、どんな物事にもいえることだった。ライブに行く、なんて夢物語に思えたし、まさか自分が切符を買えばどこにでも行けるなんて、あの頃は想像が及ばなかったのだ。

 

「 当たり前のことに、頬をぶたれる感じ 」

だから、おかしな話だけれど、大人になるにつれて 「ちゃんと欲しい切符を買って」行動に移せる人がいるんだ、という事実に頬をぶたれまくっていた。

文字にすると当たり前すぎて情けない。ここまでわかってもなかなか実行にうつせない自分がいた。たぶん、価値観を更新しないまま、大人になってしまったのだろうなあ。恥ずかしいなあ。そんな感覚を持ち続けながら、そういうことを難なくやってこなす人たちに「すごいなあ」と憧れていた。

ようやく少しずつ、欲しい切符は買えるときに買おう!と動けるようになってきた(かな。)でもやっぱりちょっと変なところで、つまづいてる。

 

「 そんな、ひっそりしたがまんを経て 」

昨日、10年ぶりくらいに打ち上げ花火を見て、上記のことを思い出していた。わたしは幼少期から花火が大好きで、できることなら毎年、大きな打ち上げ花火を5時間くらいぶっ通しで見たい。

だけど、東京の夏は暑いし、花火大会はどこも人が多い。その割に遠くからしか見れなかったりするし、帰りの電車は最悪。「花火が好き」という記憶は、<いとこの家の庭で、みんなにお誕生日を祝ってもらった後に、バーベキューをした後に、花火を見ていた>そんな体験とセットだから愛おしいのだ。大事すぎて、その記憶をなかなか更新できない。ヨレヨレのタオルケットのように離せない。

「行けない理由」をひとつひとつ、紐解いて行けば解消できたかもしれない。そうしてこなかったのは自分だ。

でも今年違かったのは、「花火に行こう」ってみんなで集まれたこと。すきな人たちと一緒に行くだけで、叶えられてしまった。自分のちからだけでは、できなかった。

だから少しずつ、みんなのちからを借りながら。叶えずにおいた小さな願いを、叶えていけたらなあと思う。誰かの願いも叶えられたらいいな。行きたい場所の切符、誰かとなら買えるかもしれないよね。

ふう。今、山から降りてきたみたいなことを言ってすみません。
わたしの人生なのでわたしの歩みで、いきますね。

たとえてしまう

「彼氏にするなら何の動物がいい?わたしはね〜...」と聞いて人を戸惑わせたことがある。

「そんなこと考えたことなかった!」と彼女は笑ってくれたけど、こういうの、自分ではふつうだと思っていた。もしかしたら多少変わった癖なのかもしれない。的確にイメージをつかんだり言語化するのに、とてもいいと思うんだけどな。あとは単純に、たのしい。

小田急線みたいなひとがすき」と、ぽろりとつぶやいたときに「君は世田谷線」と言ってくれたひとがいた。こういう感覚に名前を付けるのはむずかしいけれど、ああ、つうじているなあと思う。彼は平日の昼間の、すいている小田急線の各駅停車みたいなひと。新宿から、一緒に、だまったまま、どこまでもいくんです。わたしはゆっくり、ほとんど道路みたいな線路を走る世田谷線。あんまりいろんな町には行けないけど、道ばたの花に感動したり、さんぽ中の犬とともだちになったり、します。

それから、野菜。わたしは大根はものすごくやさしくて純朴な青年だと思ってる。ねぎはやさしいおじいさん。プチトマトはギャル3人組。わたしは、たぶん根菜と芋類とは仲良くなれる。パプリカとかズッキーニみたいな生き方にもあこがれるけど、たぶん根本的にウマが合わない。背伸びしても最後は根菜の町に帰るのだ。長芋と蓮根としっぽり飲みに行く!うんうん。

なんか、ふしぎ。例えるのは自由なのに、ひとは決まった例えばかり使うようになる。犬みたいにひとなつこい、とか、猫みたいな人、とかはふつうに言うのに、「かばみたいな人」とか言ったらわるぐちになる。今日の天気はなんかひまわりみたいだなあ、とか、思ってもいいはずなのにね。

発想は自由に、物語も自由に。あたまと心の中はいくらでも自由なんだから。

好きな川の名前がいえない

わたしが生まれ育った町には、川があった。

そのことがあってか、わたしは川が好きだ。海も好きだけど、広すぎてときどき途方に暮れてしまう。川はいつも上流から下流に流れている。潔くて、確かで、安心する。

川が好きな理由は、そんなことでいいんだと思う。太陽が水面にうつって綺麗だったとか、単に気持ちがいいからだとか。

あるとき、散歩が好きだという話をしたときに「どんな街を歩くんですか?おすすめの散歩コース3選を教えてください!」と聞かれたことがあった。住宅街を出たらめに歩くのが好きなわたしは、面食らってうまく答えられなくなってしまった。

その人とは出会ったばかりだったし、彼が悪いわけでもなんでもない。でも、こういう瞬間がつみかさなっていくと、その微妙なズレで疲れてしまうのも事実だった。最近は比較的「散歩コース3選をスッと答えられる」ことを求められる場所が多い気がしていた。そして少し、疲れていた。

 

この世には「好きな川の名前を言える人」たちがいる。わたしは、好きな川の名前がいえない。

 

異なる感覚や文化をもつひとと出会う度に、自分の感覚を疑うことになる。これでいいんだろうか。好きなものの説明もできないのだろうか。わたしがおかしいのだろうか。一度はそうやって考えてみるけれど、結局はどちらが良い・悪いという話ではないな、と思う。そして自分の輪郭が濃くなっていくのを感じる。

今日、そんな話を大切な友人に聞いてもらった。

友人は、確固たる自分をもっていて、迷うことがない訳ではないと思うけれど、その芯のある姿にわたしはいつも憧れていた。彼女は「そんなひともいるんだねえ」と驚きながらも

「いろんな人と出会うなかで、そうやって迷うのは当然のことだと思うよ」

と、まっすぐに言ってくれた。

 

なんだか、ほっとした。わかってくれる人がいるということ。そうやって丸ごと認めてくれる人がいること。違いがあって、いいんだって思えて。

その質問をしてくれたひととも、見ている世界や、その切り取り方が違うというだけなのだ。わたしは川という存在が好きで、それ以上も以下でもない。人にはいろんな「好き」がある。そのことを理解できる人でいたいなあと思う。

 

悩む度に自分を確認していく。もう、なかなか変われないだろうな。だけどこのままでいたいと思う。

わたしは、好きな川の名前がいえない。

たまごサンドを信頼している

そういえば、あのときもそうだった。

就職活動を一旦やめよう、と決意したのは銀座駅のホームだった。そのときわたしはアホみたいな顔でたまごサンドを食べながら、でも確かにそう思ったんだ。

このままやってても受からないし、嬉しくないな。不自然なことはやめよう。

それだけじゃなくて、たまごサンドを食べた瞬間に「あ、こうしよう」と、何か確かな気持ちが降りてきた経験が何度かある。たまごサンド、宇宙でつながってる説。

大きな決意をするときほど案外静かな気持ちで、あぁ、どんな人生も日常と地続きなんだと確認する。劇的な人生も素敵だ、その日を境に何かが変わってしまうような経験は魅力的だ、でもわたしはこの地続きの人生をとても、愛している。

 

先日、仕事で向き合っていた難しいことに対してずっと踏ん切りがつかなかったのだけど、たまごサンドを食べていると結論がすっと降りてきて、楽になった。なんとなく、肩の力が抜ける。口元のパンくずを払いながらふと、なんども食べた「タマゴパン」の味を思った。そのパン屋さんはわたしの大好きな街にあって、ひとりではもちろん、家族、恋人、友達、たくさんの人と訪れた。

光の入る店内に座って、何度も「タマゴパン」を食べた。やさしくて穏やかで、いつも変わらない味。

その、家庭的で普遍的なメニューを食べるという、なんてことない日常。でも、そういう日々にこそわたしはなにかを小さく決意して、人生を進めてきたのではないか。

豪華なディナーじゃなくて、日常の中にあるタマゴサンドを信頼してる。わたしのとっておきのメニュー。

一生懸命ペンギン

こんなたとえ話をしたことがある。

「一生懸命飛ぶ練習だけしたペンギンと、毎日ともだちと遊んでたペンギン、どっちが飛べると思う?」

どちらが偉いという話でもなく、正しいという話でもなく。わたしは毎日ともだちと遊んでしまったタイプのペンギンなので、「いつまでたっても飛べないなあ」と思っていたし、かといって毎日飛ぶ練習に取り組むほどまじめじゃないのもとっくに知っていた。

 

 

だけど、この頃わたしは自力で飛ぶことを明るく諦めながらも「みんなのおかげで飛べてしまった」、という経験を何度もしていたのだと思う。

そのペンギンは、そのうち、大きな鳥さんと友だちになって、背中に乗せてもらって悠々と空を飛んだりする。その下では"一生懸命ペンギン"が羽(手?)をバタバタさせたりしている。鳥の背中の上から、ちゃんとそれも見えている。

鳥さんの背中から見える景色は、氷の上にいるときより遥かに美しいし、それはそれは素敵なものなんだけど。

帰り道、その景色を、"一生懸命ペンギン"に教えてあげようと小走りでいくんです。"一生懸命ペンギン"のことがほんとうに大好きなんだ。そして今度はみんなで鳥に乗ろう、ときには羽(手?)をバタつかせよう、別の飛ぶ方法考えよう、いや、意外と陸もいいかもしれない。そうやってみんなで生きていこう、ね。

勝手にしあわせでいて


好きな人たちに対して思うことがある。それは、どうか勝手にしあわせになってほしい、ということ。
 

 

以前にこんなツイートをしたのだけど、今でも本当にそう思っている。幼い頃は好きな人に何かをしてあげたい、してあげられるとばかり思っていたけれど、人が人にしてあげられることなんて何もないのだと気がついてからは随分と楽になった。そして、「勝手にちゃんとしあわせになってほしい」と思うようになった。

先日、久しぶりに仕事でしんどい状況に直面した。クライアントと対面で重たい話をしなくてはならず、また、背景に絡みついた事情も複雑なものだった。伝え方、感情のコントロール、どう話を収束させるか。いつその日が訪れるか不明確でもあったから、なんとなく落ち着かない1週間を過ごしていた。

話をすると決まった当日は、わたしの大好きな人たちが鎌倉に1泊2日旅行に出かける日でもあった。わたしは「2日目から参加するかも枠」でメッセンジャーのグループに入れてもらっていた。

みんなが徐々に鎌倉に集まりだす。一人増え、また増えて...という様をリアルタイムで見ていて、なぜだかめちゃめちゃ救われる思いだった。「嬉しいから実況して!」と言うと、鎌倉名物の大きな白玉とか、長谷へ向かう切符だとか、報告と一緒に何枚か写真を送ってくれた。

嫌なことも起こるけど、同時にこんな素敵な時間を過ごしている仲間もいる。なんだかそれはとてつもないことに思えた。自分が今いる時間軸は当然ひとつだけど、でも世界にはたくさんの時間が存在している。好きな人たちが過ごす時間も、存在している。

きっと鎌倉で過ごした時間は、きらきらした宝物みたいだったと思う。みんながそういうときを過ごしたことがただただ嬉しくて、好きな人が勝手にしあわせでいてくれることの尊さを思う。