叶わない思いをそっとしてしまう

恥ずかしい話だけれど、"ちゃんと切符を買えば遠くに行ける"こととか、"病院に行ったらちゃんと風邪は治る"こととか、そういうことを本当の意味で自覚したのがとても、遅かった。

フットワークは軽い方だけど、妙なところで「手の届く範囲でいいのだ」と思ってしまう。諦めているのとも少し違う。変なところでつまづいてしまうこの性格について、さかのぼってぼんやり考えてみた。

 

「 そこにあるものの中から、すきを見つける。 」

わたしは山の麓にある、自然がいっぱいの町で生まれ、18年間を過ごした。今思い返すと、「そこにあるもの」で楽しむ才能は、ここで暮らす中で必然的に身につけたのかも。たとえば、映画観賞。家にあるビデオテープを繰り返し観続けていた。世界中から観たいものを探し、手に入れる!というよりも、あるものの中から好きなものを探したり、繰り返し観ることで好きな部分をより強く「わかっていく」ことが何よりの楽しみだった。

それは映画だけではなくて、音楽も、小説も、漫画も、そういう楽しみ方だった。広げていくにしても、じんわり、じんわり。今思えば非効率なやり方で、自分の"好きのエリア"を広げていくことに、喜びを感じていた。

「そこにあるもの」で楽しむ。これは映画や小説に限らず、どんな物事にもいえることだった。ライブに行く、なんて夢物語に思えたし、まさか自分が切符を買えばどこにでも行けるなんて、あの頃は想像が及ばなかったのだ。

 

「 当たり前のことに、頬をぶたれる感じ 」

だから、おかしな話だけれど、大人になるにつれて 「ちゃんと欲しい切符を買って」行動に移せる人がいるんだ、という事実に頬をぶたれまくっていた。

文字にすると当たり前すぎて情けない。ここまでわかってもなかなか実行にうつせない自分がいた。たぶん、価値観を更新しないまま、大人になってしまったのだろうなあ。恥ずかしいなあ。そんな感覚を持ち続けながら、そういうことを難なくやってこなす人たちに「すごいなあ」と憧れていた。

ようやく少しずつ、欲しい切符は買えるときに買おう!と動けるようになってきた(かな。)でもやっぱりちょっと変なところで、つまづいてる。

 

「 そんな、ひっそりしたがまんを経て 」

昨日、10年ぶりくらいに打ち上げ花火を見て、上記のことを思い出していた。わたしは幼少期から花火が大好きで、できることなら毎年、大きな打ち上げ花火を5時間くらいぶっ通しで見たい。

だけど、東京の夏は暑いし、花火大会はどこも人が多い。その割に遠くからしか見れなかったりするし、帰りの電車は最悪。「花火が好き」という記憶は、<いとこの家の庭で、みんなにお誕生日を祝ってもらった後に、バーベキューをした後に、花火を見ていた>そんな体験とセットだから愛おしいのだ。大事すぎて、その記憶をなかなか更新できない。ヨレヨレのタオルケットのように離せない。

「行けない理由」をひとつひとつ、紐解いて行けば解消できたかもしれない。そうしてこなかったのは自分だ。

でも今年違かったのは、「花火に行こう」ってみんなで集まれたこと。すきな人たちと一緒に行くだけで、叶えられてしまった。自分のちからだけでは、できなかった。

だから少しずつ、みんなのちからを借りながら。叶えずにおいた小さな願いを、叶えていけたらなあと思う。誰かの願いも叶えられたらいいな。行きたい場所の切符、誰かとなら買えるかもしれないよね。

ふう。今、山から降りてきたみたいなことを言ってすみません。
わたしの人生なのでわたしの歩みで、いきますね。