トマトの幸せを考える

わたしはトマトが好きではない。

好きではないだけで、嫌いなわけじゃない。ただ、食べなくていいのであれば食べないし、トマトが好きな人がいたら、わたしの分のトマトをあげたい。トマトを好きな人にトマトをあげるのが好き。屁理屈だと、思うでしょうか。

自分が食べられないものを無理矢理に誰かに押し付けたくはないけれど、トマトが食べたい人、トマトをあげたいサチコ、美味しく食べて欲しいトマト、3者とも幸せなのではないかと思うのだ。アホらしいけど、本気でそう思ってしまう。こうやって考えれば、嫌いなものなんてほとんどない。

こういう姿勢は悪く言えば曖昧に、人まかせに映るかもしれない。

だけど、「トマトは食べられないけど、トマトをトマトが好きな人にあげるのが好きなんです」と伝えることで、「一緒にトマトを楽しめる可能性」が見えてくる。それは素晴らしいことなんじゃないかと思う。

誰かにとって「食べられない」ものが誰かの「好物」。それなら、交換すればいいのだ。できること、できないこと。得意なこと、苦手なこと。やり方を変えればできること。考え方を変えれば、好きになれること。

 

そんなことをふと6-7年前に考えてから、わたしは「嫌い」ということばをなるべく使わないようにしている。「好きじゃない」「得意じゃない」「だけど、こういうふうにするのが好き」。それはほんの少しだけど、わたしの世界を広げてくれているように、思うのだ。