わからないままの太宰治

恥の多い生涯を送ってきました。

中学生のころ初めて太宰を読んだ感想は「こういうことって小説にしてもいいんだ!」だった。自分の中にある認めたくない、見えないふりをしている気持ちが、そこに書かれているから驚いたのだ、たぶん。

以前、木村綾子さんもおっしゃってたけれど、昔は太宰について語るハードルが高く、「太宰を読んでいる」というと「大丈夫?」みたいな空気があったと思うし、なんならちょっと「大丈夫?」と言われたくてファッション太宰をしていた節もある。(恥)そもそも、中学校に太宰治の話をできる人はいなかったけれど。

なんにせよ、当時はうまく解釈できず、でも第1の手記が妙にわすれられず、印象に残っていた。

高校生になってもう一度読んでみたとき、「あれ、別にそんなに暗い話じゃないんじゃないか?」という感覚が広がった。ダークで、絶望的で…というような先入観がなくなって、「なんか人間くさいし愛すべきひとなのかな?」と思えてきた。

そんな感じで、ときどき読みたくなって開いては、ちょっとこわくなってすぐに閉じたり、やっぱりよくわからないまま、本棚にそっと戻したりし続けた。会えば会うほどすきになるみたいに、なんとなくわたしのなかで存在が濃くなっていった。

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桜桃忌。わたしはここ3年、連続で早めに退社している。お墓まいりではなく、又吉さんが主催する「太宰ナイト」にいくためだ。

又吉さんのおかげで、わたしの「人間失格」は、みるみる世界を広げていった。誰かの解釈を聞くのがこんなに面白いなんて。こんな深い読み方ができるなんて。太宰のみならず、読書の楽しみ方を教えていただいている。

わからないままにしていた小説と、感情と、また向き合えるようになった。時が経つといいこともあるものだなあ。

ただ、いっさいは過ぎていきます。自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。

 

どんな悲しいことがあっても、のんきな天気のまま、電車はいつも通り走り、驚くくらい普通に次の日がくる。わからないままの小説を本棚に戻しても、時間が経って解釈できるようになったり、誰かに面白さを教えてもらえたりする。自分の変化や成長で、小説の面白さが変わっていくのにも気づく。とにかく時間は流れていく。自分の心以外がぐんぐんすすんでいく。ときどき何はなくとも、そんなことを考えて置き去りにされてしまう。口の中でぶつぶつと「ただ、いっさいは過ぎていきます。」とつぶやく。わたしなんかよりよっぽど置き去りになってしまった太宰。死してなお生き恥を晒してわたしたちに「大丈夫だ」と教えてくれているような気がする、そうやって勝手に親近感を覚えてどんどん、わからないままの太宰を好きになっていく。