小説の情景と生きる

 

こんなふうに、小説の一節や情景が自分の中に残っていることを、最近やっと自覚するようになった。わたしのなかにそれが存在しているということは、その小説や登場人物と共に生きていることだ。世界がやさしく見えないときや、こころに暗い影が落ちるとき、わたしを守ってくれる。風景の中に、吹く風の中に、小説で見た情景や味わった感覚を、無意識に探してしまう。

もしかするとそれは、他の人にとっては音楽であったり、映画であったり、何か別のものなのかもしれない。わたしにとっては高確率で、小説や物語だ。ことばがそれを、連れてきてくれる。

たとえば、ツイートの中にもあった「哀しい予感」(吉本ばなな著)の冒頭の文章。

その古い一軒家は駅からかなり離れた住宅街にあった。巨大な公園の裏手なのでいつでも荒々しい緑の匂いに包まれ、雨上がりなどは家を取り巻く街中が森林になってしまったような濃い空気がたちこめ、息苦しいほどだった。
 ずっとおばがひとり住んでいたその家に、私はほんのしばらく滞在した。それはあとで思えば、最初で最後の貴重な時間となった。思い出すと不思議な感傷にとらわれてしまう。いつの間にかたどりついた幻のように、その日々は外界を失っている。

はっきりと思い出す。古い木の玄関扉には曇った金色のノブがついていた。庭の雑草は放ったらかしにされて高く高く生い茂り、枯れかけた立木と共にうっそうと荒れて空を隠していた。つたが暗い壁を覆い、ひび入った窓にはテープが無造作に貼ってあった。床はいつもほこりにまみれ、晴れた光に透けて舞い上がってはまた静かに床を埋めた。あらゆるものが心地良く散らかり、切れた電球は替えられることもない。そこは時間のない世界だった。

わたしは「おばの家」に行ったことがないし、この空気を吸っていないはずなのに、現実でふと「あ、この空気知っている」と感じる。逆に言えばわたしたちが日々対峙しているあらゆる風景や感覚、感情を、作家さんは文章にしてくれる。こんな表現があるのかといつまでも感動する。思考や表現には限りがない。小説とは、なんて面白く、奥深く、興味のつきないものなんだろう。この面白さに一生夢中でいたいなあと思う。

 

たとえば、カラッとした夏の日には「TSUGUMI」を思い出す。口の悪いつぐみという少女に会いたくなる。砂浜を歩く、華奢な後ろ姿まで浮かぶようだ。つぐみが犬を好きな理由。恭一が好きな国旗の柄のタオルケット。細かいモチーフやエピソードも毎年のように思い出して愛おしくなる。

秋は、「High and Dry(はつ恋)」。冒頭の、金色に輝く空気が吸いたくなる。「デットエンドの思い出」も外せない。とくに今回とりあげている吉本ばななさんの小説は、どれも冒頭が最高。ぐっとその季節や空気感にひきこまれてしまう。そしてわたしのなかに、居続ける。

いつでも情景が思い描ける作品がいくつもあることに、どんなに支えられているだろう。そしてたまに、それが共有できる人に出会ってしまったら、楽しくてたまらない。

うん、本を読もう。