じぶんの中は自由

職業とは別で、その人の"ベースタイプ"ってあると思う。在り方、みたいなこと。

この人は思いやりがあって基本が接客業だなあとか、世界の見つめ方、ものごとの切り取り方がフォトグラファーだなあとか、営業マンだけど実は心が詩人だなあ、とか。いつも思いを運んでくれる郵便屋さんみたいな男の子、たましいがダンサーみたいな女の子。そんな友人も思い当たる。

その"ベース"は、何をするにも根底に流れているもの。だけど、1つとは限らない。みんな、いろんな面がある。その全部が奇跡みたいに混ざり合って重なって、その人になっている。

▼そんなようなことを書いた過去のnote。"「誰かを喜ばせたい」魚屋さんが、誰かにとってのサンタさんにもなれる。"

note.com

 

職業とか経歴じゃなくて、この"ベース"がなんなのかを見るほうが、その人のことを知れるような気がする。知りたいなあ。

わたしにも、そういういろんな側面がある。心の中にいろんな職業の人を住まわせておけたら、すごく楽しいよ。じぶんの頭の中も、心の中も、もっと自由にしていいはず。

わたしの中にいる人たち。

店員さん。詩人。広告をつくるひと。任侠俳優。探偵。親戚のお姉さん。芸人。(?)

わけがわからないと思うけど、どれもわたしの中に存在する。みんなはいろんなわたしに出会ってよね、と思う。

ものすごく時間がかかったとしても

ときどき、ものすごく、時間がかかる。
おかしな言い方だけど、わたしはとにかく時間がかかる。かかっちゃう。

最近向き合うことになったこの性質。嫌になりそうにもなったけれど、諦めがついてきた。というか、それがわたしなのだから。自分で自分を、待ってあげるほかないよなあ、と思う。

わたしは頭が良いわけではないし、意思決定のスピードや、判断力、何をとっても、なかなかパッとしない。他の誰かならすぐに理解して判断できそうなことでも、自分の中で解釈して答えを出すのに、ものすごく時間がかかるのだ。それは3日のこともあれば、1週間、1ヶ月なこともあって、ときどき、5年とか10年とか、かかってしまうこともある。

なんていうか、わからないのだ。そんなにすぐ、結論が出せない。このモヤモヤの正体を暴けない。かといってモヤモヤを置き去りにできない。
今、何が大事なのか。じゃあ、何をすべきなのか。そのために何を捨てるのか。決断が大事だと聞いたりもする。もっとスピード感を持つべきなんだろうな。だけど、そんなにすぐわからない。そっと置いておきたいこともある。

もう、しょうがないかなあ。

そんな風に考えていたタイミングで、樹木希林さんと黒木華さん主演の「日日是好日」を観た。

なんとなく、慌ただしい日には観たくなくて。今日こそ、と思ったタイミングで映画館へ。その中で、光のようなことばと出会った。

世の中には「すぐにわかるもの」と、「すぐにわからないもの」の2種類がある。すぐにわからないものは、長い時間をかけて気づいて、わかってくる。子供の頃はまるでわからなかったフェリーニの『道』に、今の私がとめどなく涙を流すことのように。

ああ、これはいちばん今聞きたかったことばかもしれない。誰かにいってほしかったことばかもしれない。

樹木さん演じる武田先生は言う。

「私、最近思うんですよ。こうして毎年、同じことができることが、幸せなんだって。」

毎日同じことを繰り返すのが苦ではないわたしにとって、茶道はとても魅力的に感じた。もっと知りたいと思った。すぐに茶道をやるとかそう言うことではなくて。日常もそう、何気なく続けている日々のことが、何より尊いんじゃないかと思う。

 

例えば、バスケットボールを10年続けたこと。同じ街で何年も遊び続け、同じ店のメニューを食べ続けること。同じ作家さんの作品をずっと見つめていること。新卒から同じ会社で働いてもうすぐ10年になること。答えのないことをぼんやりといつまでも、頭や心の中に住まわせていること。消化できなかった思い。結論を出さないままで大事に抱えているものごと。ときどき一人でこうして、映画や小説や誰かと交わした会話の中に光がさして、ふとわかったりする。意図せず答え合わせできてしまったりする。

 そういうことがわかっていくのが、いちばん面白い。時間がかかってもいいや。ものすごく時間がかかったとしても、それで。

やりたくないこと、やらないでみたい

「やりたくないことをやらない」なんて至極当然のことだ。でも私達はしばし、やりたくないことをやっている。

例えばだけどわたしは今いる会社が大好きだ。だから「働きたくない」「会社に行きたくない」と感じることが、今やゼロ。そういう大きな項目としては、「やりたくないこと」はやっていないつもりだ。

今日書きたかったのは、日々の中のもっともっと小さなこと。

例えば。言いたくない社交辞令を言いたくな〜い。
一般論を並べた薄っぺらい会話をしたくな〜い。
気を使う微妙な空気の飲みの席に行きたくな〜い。
好かれようと思う気持ち由来の言動をしたくな〜い。

こういうの小さいものが積み重なっていくと自分が嘘でいっぱいになる気分。いい加減自分の人生に集中してもいいんじゃない?と思う今日この頃。

なんだかこの間、ふとした飲みの席で気を遣ってしまい、とても疲れたし寂しかった。そのことが、ものすごくくだらないことに思えてしまった。この遠慮はなんだろう?いまこの場を取り繕うことに、そのあと続く関係性に、なんの意味があるんだろう。ありのままに、って難しいし一見ひとに迷惑をかけることもあると思う。でも、正直でありたい。少しずつシンプルにしていきたいなあ。

母と樹木希林が似ている

わたしは母がどんな人間だったのか、よく知らない。

母のこと

大学生3年生の終わり、母が亡くなった。高校を卒業して家を出るまでは一緒に暮らしていたのだから、もちろん全然知らないというわけではない。

ただ、家にいる母は「お母さん」の姿でしかなかった。だから、母自身がどんな人間で、何が好きで、何を思って生きているのかは、びっくりするくらい、よく知らなかったのだ。

母が好きなもの。父。家族。ラモス瑠偉。生徒。お庭や植物。賢くてハンサムな男の子。あとは、うーん、何だろう。

仕事に対する思いも、スタンスも、私たちにどんな人生を歩んでほしいと思っていたのか、母自身の人生をどう考えていたのか、家族のこと、過去のこと。わたしはあまりに幼すぎて、母が一人の人間だということを本当の意味で理解することができなくて、いつまでも子どもだった。だから、母はいつまでも母のままだったのかもしれない。

 

樹木希林さんのこと

樹木希林さんの魅力の虜になったのは、2015年に映画「あん」を観たときだ。小さな頃は「変なおばさんだなあ」くらいに思っていたが、素晴らしい俳優さんだと気付いたのは本当に数年前。「あん」に出会ってからは「1番好きな女優さん」として、彼女の名前をあげるようになった。

その演技はさることながら、普段の彼女の姿も大好きになった。嘘を言わない。媚びない。謙遜も誇張もしない。ちょっとのユーモアと、時々、意地悪。(意地悪なんじゃないけどね)飄々としているその姿、歯が立たない感じになんとなく既視感があった。あ、わかった。樹木希林さんと母は似ているんだ。

父に何気なしに「樹木希林さん主演の映画を観た、すごくよかった」と話すと、父は「あの女優さん、なんかママに似てるんだよなあ」と言った。

「なんていうか、敵わない感じが」

やっぱり。

 

「敵わない」存在

樹木さんほどではなかったかもしれないが、母にも上述したようなところがあった。たとえば父と母はほとんど喧嘩をしたことがない。父が多少カッとなったとしても、母は相手にしなかったのだろう。肩をすくめて、すまして、何も言わない。そのうちに母のペースに引き戻されて笑っている父の姿が想像できる。戦わずして勝ってしまうような、それでいて"正しい"と思わせてしまうような。なんとなくユーモアで丸く収めてしまう。そんな力があった。

人が近寄ってくる明るい性格だったけれど、その距離を自分から詰めようとは決してしなかった。外に出て行くのも好まなかった。来るものはたまにしれっと拒んで、去るものは追わなかった。居続けるものにはやさしかった。不思議な人だった。本当に、不思議な人だった。

父にとって、私たちにとって、母のそういうところが、光だった。

 

役を生き続ける

そんな特別な思いもあったから、訃報を聞いたときは本当にショックだった。だけど、彼女には作品の中で会うことができる。彼女が生きた役の姿に、何度でも出会うことができる。それがせめてもの救い。

「東京タワー」や「わが母の記」そして「あん」は、どうしても涙が出てしまう。これからはもっとそうなるだろうな。「あん」は素晴らしい映画だけど当時は父にすすめられなかった。きっと、母を思い出してしまうのではないかと思ったから。

 

「母をよく知らない」なんて思うようになったのは、自分が歳をとったからだろう。母はいつまでも、56歳のままだ。

樹木希林さんをみるたび、母を思い出したりして。「やっぱり敵わないなあ」なんて、思い続けるのかもしれない。

 

 

働き者とリゾート

「リゾート」って自分に縁がないものだと思ってたんだけど、ごめんなさい。とんでもなかった。

リゾート、最高!

「再び」を意味する "re" と、フランス語で「出かける」という意味を持つ "sortir" の略である "sort" が合わさった単語で、「何度も通う場所」という意味が転じて行楽地となった。(Wikipediaより)
本来は行楽地全般のことを指すが、古典的な保養地(英語版)のイメージのように「風光明媚で、のんびりとリラックスできる場所」という意味合いが付加されることがある。(Wikipediaより)

先日、沖縄に行って2度目のいわゆる「リゾート」を体験し、考えを改めました。

働き者こそリゾートしてほしい。朝起きて、山を見て、海を見て、ご飯食べて、海を見て、散歩して、笑って、ご飯食べて、お風呂はいって、寝て。

広い場所で、のびのびと。強制的に、何もしない時間。
荷物もそんなに持たなくていい。
できれば、大事な人と、気の置けない人と、行ってほしい。

 

日々、溜まっていくもの

わたしは会社も仕事も大好き。だけど、毎日遅くまで会社にいると、いろんな思いが募ってくるのも事実。単純な身体の疲れだけではなくて、日々置き去りにしてしまっていることとか、家族を大事にしたい気持ちとか、だけどできていないことへの悔しさとか。いろんなものが溜まっていく。わたしにはそのことがつらかった。

リゾートは、それを洗い流してくれる。スカッと忘れさせてくれる。以前、写真家の石川直樹さんが「旅をして生きていると(大自然に触れると?)、自分の中身が入れ替わる感覚がある」とおっしゃっていた。

少し、分かる気がした。沖縄の空気を吸ったとき、青い海を見たとき、夕日が沈むのを見たとき。昨日まで考えていたことがどうでもいいことのように感じた。いつも張り付いているツイッターのタイムラインの情報が、違う世界のことのように感じた。見なくても全然平気だった。

たった3日間で、信じられないくらいリフレッシュできた。
大事な人を大事にできる、100%で笑える、素直な人間に変身できた。

 

自分にとってのリゾートを

きっと、その人にとって最適な"リゾート"があるんだと思う。わたしは、とにかく自然が好き。そしてなにより、家族との時間を大事にしたいと思っている。家族が幸せでないと自分も幸せだと思えない。

だから、"自然にふれる"、"家族と過ごす"以外に、やることがない今回の旅は最高だった。

だんだん自分のことがわかってきたので、こうやって定期的に出かけたい。家族だけじゃなくて、大好きな友人たち、ときには一人で、自然の中で過ごしたい。どこで生きていようと、絶対に自分にとって心地よい場所を見つけたいし、普段がんばるために、自分へのご褒美を自分の手で見つけ出したっていいのだ。

頑張ってるのに、大事なものをなくしていくなんて、悔しいじゃない。日々、忙しくて、大事にしたい気持ちを忘れがちな人にこそ、リゾート、してほしい。

 

ハー、またきれいな空気を、吸いたいな。

過ごし方も場所も、自由。
すべての働き者にリゾートを。

 

 

ポエムをなめるな

2016年にわたしを救ったことばがある。

最果タヒさんのブログで出会った、この文章。

「お化粧も詩である、ファッションも詩であるという立場に僕は立ちたいんです。資生堂の仕事というのは、日常にあって日常を超えること。現実を童話の世界に変えること。一種の魔法。だから、詩と同じなんです」
資生堂「現代詩花椿賞」創設にあたっての、詩人・宗左近さんの言葉)

広告の仕事も、きっとそうだ、そう思っていいんだ。そして仕事に限らず、どんなことにも「物語」や「詩」を持ち出してしまう自分のことを、「ポエマーくずれ」とわざと自虐したこともあったけれど、自分の根底に流れているものが、どう考えても「物語」や「詩」なのだから、誰に何を言われても、揶揄されても、もう少し信じて続けてみようと思ったんだった。

なんていうか、ポエムをなめるな。

詩を、曖昧なものだとバカにするな。

現実を支えているのはいつだって小さな魔法だ、魔法の連続が人生だ。何でもかんでも定義して正しいことばに変えてくれるな。良くある単語で喋るな。いつだって自分の表現をしている人が好きだ。自分のことばで話すこと、やめないでもう少し信じ続けてみる。

 

読む人がその詩を通じて、その人自身の内側や現実を見つめるような、そんな詩。いつもの景色や自分を少しだけ、変えて見せてくれるような、そんな詩が作りたかった。そしてそれはきっと、お化粧が放つ光のようなものにとても近いと思うのです。既製品の美しさを被せるのではなく、その人の内側から、その人自身の美しさを浮かび上がらせるような、そうしたお化粧にはきっとレンズのように自分を変えます。飾るだけで、見える景色も明るく、もしくは瑞々しく見えていく。それは、私が作りたかった詩の、あり方そのものでした。
最果タヒ 2015.11.3blog「星が、人が、美しさを愛するなら。」より)

 

 

まだカタカナの「シ」が上手にかけなかった頃。ファッツョン。

小説の情景と生きる

 

こんなふうに、小説の一節や情景が自分の中に残っていることを、最近やっと自覚するようになった。わたしのなかにそれが存在しているということは、その小説や登場人物と共に生きていることだ。世界がやさしく見えないときや、こころに暗い影が落ちるとき、わたしを守ってくれる。風景の中に、吹く風の中に、小説で見た情景や味わった感覚を、無意識に探してしまう。

もしかするとそれは、他の人にとっては音楽であったり、映画であったり、何か別のものなのかもしれない。わたしにとっては高確率で、小説や物語だ。ことばがそれを、連れてきてくれる。

たとえば、ツイートの中にもあった「哀しい予感」(吉本ばなな著)の冒頭の文章。

その古い一軒家は駅からかなり離れた住宅街にあった。巨大な公園の裏手なのでいつでも荒々しい緑の匂いに包まれ、雨上がりなどは家を取り巻く街中が森林になってしまったような濃い空気がたちこめ、息苦しいほどだった。
 ずっとおばがひとり住んでいたその家に、私はほんのしばらく滞在した。それはあとで思えば、最初で最後の貴重な時間となった。思い出すと不思議な感傷にとらわれてしまう。いつの間にかたどりついた幻のように、その日々は外界を失っている。

はっきりと思い出す。古い木の玄関扉には曇った金色のノブがついていた。庭の雑草は放ったらかしにされて高く高く生い茂り、枯れかけた立木と共にうっそうと荒れて空を隠していた。つたが暗い壁を覆い、ひび入った窓にはテープが無造作に貼ってあった。床はいつもほこりにまみれ、晴れた光に透けて舞い上がってはまた静かに床を埋めた。あらゆるものが心地良く散らかり、切れた電球は替えられることもない。そこは時間のない世界だった。

わたしは「おばの家」に行ったことがないし、この空気を吸っていないはずなのに、現実でふと「あ、この空気知っている」と感じる。逆に言えばわたしたちが日々対峙しているあらゆる風景や感覚、感情を、作家さんは文章にしてくれる。こんな表現があるのかといつまでも感動する。思考や表現には限りがない。小説とは、なんて面白く、奥深く、興味のつきないものなんだろう。この面白さに一生夢中でいたいなあと思う。

 

たとえば、カラッとした夏の日には「TSUGUMI」を思い出す。口の悪いつぐみという少女に会いたくなる。砂浜を歩く、華奢な後ろ姿まで浮かぶようだ。つぐみが犬を好きな理由。恭一が好きな国旗の柄のタオルケット。細かいモチーフやエピソードも毎年のように思い出して愛おしくなる。

秋は、「High and Dry(はつ恋)」。冒頭の、金色に輝く空気が吸いたくなる。「デットエンドの思い出」も外せない。とくに今回とりあげている吉本ばななさんの小説は、どれも冒頭が最高。ぐっとその季節や空気感にひきこまれてしまう。そしてわたしのなかに、居続ける。

いつでも情景が思い描ける作品がいくつもあることに、どんなに支えられているだろう。そしてたまに、それが共有できる人に出会ってしまったら、楽しくてたまらない。

うん、本を読もう。